泥のような

菩薩と子供のはなし

しょうがない、の話

周りに年上の人が多いこともあって、「まだ若い」ってよく言ってもらえるし世間一般的にもまだ若いと思うけど、それでもこの歳になると自分の力ではどうにもならない、すなわち「しょうがない」ことが世の中にはあるということが分かる。

 

もちろん「諦めなければ何とかなる」だとか「本気でやればできないことはない」といった言葉を否定するつもりはないし、むしろそれは真であると思う。自分で限界を決めてしまうとそれ以上のことは成せない。当たり前の話。けれど、ものすごく精神が強いわけでもなければものすごくポテンシャルやバイタリティを持ち合わせているわけでもない“普通の人”にとっては、大抵のことは「しょうがない」のだ。多分。「本気で頑張る」体験をしてこなかった割にそれなりの成果を得てきてしまった生いたちのおかげで、わたしは人よりガラスの天井を作りがちになってしまったのは否めないけれど、まあそれにしたって力の及ばないことはこの世界には多くある。悲しいぐらい毎日。

 

ただ、悪い面ばかりではないのだ。「最大多数の最大幸福」のようなものを求めるときに役立つ志向である。上手く使えば。できないことがある→じゃあできないなりに楽しく過ごすには、と代替案を探す方にすぐにシフトできる。できないことにいつまでも労力を費やすよりはよっぽど合理的で健康的だ。歩みを止めないために迂回路を探す、という方法は時にネガティブな印象を抱かせる。しかし、土砂崩れで埋まってしまった道を素手で掘っていたずらに手を汚すことに終始するよりは、回り道でも、あるいは目的地が変わってしまっても、歩き続ける方がたぶん美しいのだ。効率的でもあるし。

 

口癖のように「しょうがない」と言ってしまうけれど、だからこそそこは置いといてよりよく生きる方法を探すのも悪くないんじゃないかと思う。堂々巡りをするよりは。受け入れる・受け止めるマインドもやはり必要で、自分の手では動かせない何かと共存する姿勢も人には不可欠なのだ。とはいえ、やればできることをやる前に諦めてしまうのはわたしの悪癖なので、80%の自分ではできないが100%の自分ならできる、ということを取りこぼさないように進んでいけたら、などと思う。