甘々
「多分会えるかも」
時間は知らされてない。いつものごとく。どうなるか分からんから連絡するね。されたってすぐに家出れるわけじゃないから準備に必要な時間とかも考える。それで結局会われへんって言われても、文字の上ではちゃんとニコニコしてられるし楽しんできてね、て言える。もちろんそこにはそういった本心も半分ぐらいあるけど、やっぱりあとの半分は「そんな中途半端なことするなら最初から会えるなんて言うな」「そもそも時間分かったらはよ言えってずっと言ってるやんけ」と思っている。心が狭くて嫌になるけど、外に出す顔は中々にいい女房役やってんじゃねえかな。などと自分で言っておかないと誰も言ってくれないので自画自賛しますやったー!
でも「愛してる」の一言でぜんぶ許せるのでわたしはチョロい。わたしも愛してる。いつだって愛してるよ。
度量衡
有難いことにうちの人は、好きだ、とか愛してる、とか割と言葉にして言ってくれる。世間の平均は分からんが多分相当な頻度で言葉で伝えてもらってると思う。そういうときは決まって「うちの方が好きやで」と返しておったのですが最近やめた。「有難う」とか「嬉しい」とか「うちも好きやで」にして、比べるのをやめた。なんとなく。
まあ事実としてわたしの方が貴方のことを考えてる時間は長いけれども、それはわたしが今たまたま学生という身分で時間を持て余しているだけであって、仕事を始めたらそんな余裕はなくなるのかもしれない。考えてると言っても堂々めぐりを延々と繰り返しているだけで、大抵の場合、自分の力の及ばないところで彼が負う色々を呪っているか、週末のセックスを思い出しているかどっちか。
先に好きになったのはわたしなので、わたしの方が好きだとも思うし、頭に浮かべてる時間が長い分好きだとも思う。未だに「わたしの方が気持ちが大きい」と思ってはいるが、もしかしたら、発露の形が違うだけで思慕の多寡はそれでは計れないのかもしれない、と今日思った。彼の頭の中に自分が少しでも住んでいるならそれだけで幸せで、それが一番の幸せなのだ。
いつもそうですけど
その4文字の言葉がどれだけわたしを縛るか、とおもってしまうし、そんなことをおもってしまう自分が嫌い。
本当は、それならゆっくり休ませてあげたり、適切なことばや態度を与えてやれたらいいのに、心配したあと泣きそうになって、それをしんどいと思ってしまうので実は最近正直聞きたくない。まあ別に向こうだって何か解決してほしくて言ってるわけではないと思うけど、でも、実際にそうであることもわたしは一応知ってるのでとってもとっても嫌になるし、いつも抱えてる殺意はこうして日常から生まれてどんどん成長していくわけですね。
この人が身体も精神も充実して、何の不満も疲労もなく生きられたらいいのに。いつだってそればっかり考えてる。神様がいるなら頼むからこの人の人生からちょっとばかし大変さを切り取ってくれっつって。それか、わたしが神様になるしかないのかもしれない。
つかれた、という言葉を聞きたくないという話でした。